2013年11月4日月曜日

塾長の部屋(55)~「質問は何のため」~立命館大学”発明講義”第6回から

立命館大学での講義は、例年より一回分前倒しにして、第6回に前半課題の発表(注1)と質疑応答を行いました。

今回、学んで欲しかった事は以下です。


①「なんのために質問をするのか」

②「解っていないことを、判ること」
③「言い訳は、時間の無駄」
④「理解できない状態を、放置しない」

高校の時に出来ていたことが、何故かできなくなるのが「日本の大学生」です。


講義メモから、順番に行きましょう(注2)。





①「なんのために質問をするのか」

いくつか挙げることが出来ますが、僕が重視するのはこれ。

「質問は相手のため、その場のため、そして自分のため」

相手の理解を深め、その結果議論が深まり、その場全体が成長するような質問を考えるのが、質問者の仕事。限られた時間を、いかに本質的な議論に向けるか。質問者の責任は重大です。僕の講義では、発表以上に、質問を評価します。

逆に、良くありがちな「自分の頭の良さをひけらかすための、揚げ足取りの質問」は、僕の講義では厳禁。集まってまで、やる意味は無い。せいぜい、掲示板にでも書き込んで、自己満足することです。

今回は皆、前向きに質問を考えてくれたので、議論がそれなりに深まったと思います。

みんな、ありがとう!

参考図書に、「質問力」(齋藤孝)を挙げておきました。



②「解っていないことを、判ること」

解っていることと解っていないこと、出来ていることと出来ていないことを分けること。事実認識、現状認識。全てはここから始まります。

解っていないところが判れば、そこを何とかすれば良い。ギャップが把握できずに、努力しても仕方がない。間違った方向に、全速力で漕ぐ程、虚しいことはない。



③「言い訳は、時間の無駄」

質問への返答は、あくまでも「回答」であるべき。感情論を捨て、事実に基づいて、理路整然と簡潔に答える。わかっているのかわかっていないのか、出来ているのか出来ていないのか。出来ていないなら何故だと思うのか。どこの理解が不足しているのか。

その自己認識なしに、成長はない。それを、討議を通じて明らかにする。他人のふり見て・・・的なことも含め、あらゆることから学ぶ。

で、なければ、大学に集まって学ぶ、ことにほとんど意味は無いと思う。


さて、僕の経験上、多くの大学生は、質問に対してまず「言い訳」をする(注3)。

わからないことはわからないと、事実を認めること。それが学びの第一歩。わかっていない理由は、はっきりいってどうでもよい。まして、わかったふりをしても意味は無い。



④「理解できない状態を、放置しない」

理解できてなんぼ。出来るようになってなんぼ。そこまでしつこく考え、練習すること。それに値しないことは、最初からやらなければいい。時間が無駄。

これもまた、高校時代には「なんとか理解できるまで粘って」いた学生が、大学に入った途端、「単位が取れれば良い」「テストの点数がある程度取れれば良い」というところに、目標を定めてしまう。


その結果、「解らなくても別にいい」「解らないのが普通」という規準ができてしまう。しかしこれは、彼らが社会に出るにあたって、致命的な欠陥となる。

「はい」「解りました」が信用出来ない社会人ほど、使えないモノはない。

単位やテストの点数は、「結果」であって、「目標」には、なりえない。大学も、単位や点数で「釣る」ようなことは、却って学習意欲を別の方へ向けてしまうことに、気づいているはず。


僕は講義初回を、「なぜ」僕がこの講義をするのか、ということを話します。「学ぶ意味があるかどうか」は、学生が自分で判断すること。「学びたい」「自分にとって意味がある」が思った学生だけが、受講してくれればいいわけです。


大学が、その「多様性」を保証することが、最も重要であると、僕は考えています。


そして、「学びたい」と思ったことを「徹底的に、理解できるまで学ぶ」「そのために、学び合う」ことのみが、大学で「皆が集まって」やる意味があることです。



※ 注1) 実際には、机上発表のみとし、口頭発表の時間は与えなかった。「チャラい」プレゼン資料を作ってだらだらと話してもらうより、文書で厳密にまとめてもらうことを重視した結果です。


※ 注2) 僕は、立命館大学での講義時には、簡単な講義メモ/指導案のみを準備し、ほとんどアドリブで行うことにしています。その方が、学生の「理解」(表情や、ちょっとした言動の変化から読み取る)に集中できるからです。また、学生から自由に質問を受けることが出来るだけの、余白も取ることが出来ます。


※ 注3) 何故か今年は、一人として言い訳に終始する人はいませんでした。